« 「製造業」の零年 | トップページ | 蔓延する「まるなげ」 »

一番近くにいるのは『誰』なのか?

いじめ自殺をしたオヤがいろいろとアピールしたり
自分たち以外を『非難』するとき、いつも腑に落ちないことがある。
・・・ついつい次の質問が脳裏に浮かぶ。

『あなたは、なぜ気がつかなかったの?』

つつぎはジム帰りにて、それまで、だれかこれについて先に書いておくれ…

ブログ検索キーワード:『いじめ 親 なぜ』
http://blog-search.yahoo.co.jp/search?p=%A4%A4%A4%B8%A4%E1%A1%A1%BF%C6%A1%A1%A4%CA%A4%BC&ei=
・・・後から続きます。

今日は、2006年最後のヨーガ。天気に気をつけて、行って来ます。

ではまた。あどで。

=====

さて、話を続けよう。

子供が突如としてこの世からいなくなる親の

・悲しみ
・苦しみ
・怒り

などは、想像の域をでないが自分の親の死以上のものがあると
想像する。

残された親には、むなしさややり場のない怒りがその人をつつむ
それはわかる。・・・だが、ちょっとまってほしいのだ。

自殺は、自身に対する「殺人」なのだ。
朱色会からいわせれば『犯罪』なのである。
または、究極の自己逃避ともいえる。
この世からの脱走ともいえるだろう。
おぎゃあと生まれたからには、石にかじりついても
少なくても親よりは生きるべきだろう。
それが、生んで育ててくれた人への最低限の礼儀だと思う
つまり、親より先に逝くものは無礼なのだ。

例えば、自分の子供が殺人を犯したとする。
自殺とは、その殺人の対象が自分自身だったということである。
自身の死だけが免罪されるこの世に不可思議さを覚える。
容疑者死亡のまま、書類送検されるべき「事件」だと思う。

ーーーーーーーーー
さて、殺人を犯した子供ということになると
親としてはなぜそれにきがつかなんだということになる。

人間は弱いものだ、「理由」を自分以外に求める。

一番、矛先を向けやすいのが
学校内の監督責任である担任の先生・
あるいはその管理者である、学年担任や校長だろう。

しかし、それは、いまの学校にはムリがあることだ。
先生の役割は、【人間】の育成から、
学力強化に完全に存在価値がシフトしているのだ。

また、論理的に考えても生徒と先生は、30対1である。
常にウォッチをせよといっても物理的に不可能。

前世紀、たとえば朱色会が学生のときは
確かに先生たちには余裕があったとおもう

今はどうか?確かに奇特な先生はいる
校長に睨まれながらも、休み時間も生徒とコミュニケーション
をしてくれる先生も僅かではあるがいるだろう

だが、ほとんどの先生は、職員室に引きこもり
待ち時間は教材の整備や、さまざな雑用をおこなう。

「先生、私のこどもをしっかりみてください」
という要望はわかるけど、・・・はっきりいおう。

先生にはその余裕がもうないのである。
先生は、守護の役をもうできない。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/teacher_scandal/
ーーーーーーーーーーーーーーー

「だれが、こどもを守るのか」

その答えはこのブログを読んだ読者ならばわかるはず。

だれよりも彼・彼女を理解し、
だれよりも彼・彼女の変化を察知し
だれよりも彼・彼女が頼りにする存在。
そして
だれよりも彼・彼女が生きる指針としており、
だれよりも彼・彼女の近くにいて、だれよりも生きるエネルギーを
継ぎ足せる存在。

・・・その名を「親」という。

親しかいないのである。
ほかには・・・存在しない

貴方の子供をまもる唯一なる存在は、「あなた」です!

|

« 「製造業」の零年 | トップページ | 蔓延する「まるなげ」 »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/27553/4686129

この記事へのトラックバック一覧です: 一番近くにいるのは『誰』なのか?:

« 「製造業」の零年 | トップページ | 蔓延する「まるなげ」 »